1.白銀の円環、その不敵な輝き
約1年半前の9月のことである。
まだ夏の熱気が瀬戸内の潮風に混じり、私の判断能力を微妙に狂わせていたあの頃、私は人生最大級の「背徳」へと足を踏み入れた。
「……また、何か届いたわよ」
玄関先で嫁が放つ、氷点下の冷気を帯びた言葉。私はそれを「いや、これは仕事に必要な、極めて重要かつ不可欠な資料でね」という、自分でも耳を疑うような見苦しい嘘で受け流し、震える手でその箱を自室へと運び込んだ。
箱の中から現れたのは、シマノが誇る最高峰の円形リール、23カルカッタコンクエストBFSである。
鈍く、しかしどこまでも気高く輝くその銀色のボディ。それは、家庭内最下層を這いずる私のような男が手にして良い代物ではない。本来であれば、もっとこう、人生を謳歌している晴れやかなアングラーの手に収まるべき工芸品なのである。しかし、私は手に入れてしまった。この白銀の円環を。
2.サミングという名の、あまりに繊細な「対話」
私はこのリールを、あえて夜の瀬戸内でのライトゲームに投入する。
スピニングリールという「全自動の安寧」に身を任せればいいものを、私はあえてこの小さなスプールの回転を、自分の親指一本で制御しようというのだ。
このリールのスプールは、まるで北風に震える子犬のように繊細で、かつ恐ろしく鋭敏である。一瞬でも私の親指が集中を欠けば、漆黒の闇の中で「バックラッシュ」という名の、二度と解けない知恵の輪が出来上がる。
なぜ、わざわざそんな緊張感を金で買うのか。
それは、ままならない日常において、この冷徹なまでに精密な機械を、自分の不器用な指先で手懐けようと格闘する時間だけが、唯一の「純粋な自由」だからである。バックラッシュの恐怖と引き換えに手に入れる、わずか数グラムのルアーが夜風を切り裂く感触。それは、家庭内ヒエラルキーの底に沈殿している私に与えられた、唯一の特権といっても過言ではないのだ。
3.投資、あるいは「未来への身代金」
このリールの価格を嫁が知れば、私は間違いなく、晩酌の「ほろよい」を「水道水」にグレードダウンされるだろう。あるいは、私の夕食のメインディッシュが、猫のカリカリ一粒に変更される未来も十分にあり得る。
それでも私は、このHG(ハイギヤ)のハンドルを回さずにはいられない。
一巻きごとに伝わってくる、鋼鉄が噛み合う密やかな官能。それは、明日もまた「がいな」嫁の機嫌を伺い、職場で頭を下げるための、いわば精神的な身代金のようなものなのである。
「これを買ったからには、もう後戻りはできない」
白銀の輝きを前に、私は自分自身にそう言い聞かせる。このリールで仕留めたアジは、もはや単なる魚ではない。私の血と汗、そして乏しい小遣いの結晶であるところの「聖なる戦利品」なのである。
4.おわりに
23カルカッタコンクエストBFS。
もしあなたが、夜の海で銀色のリールを握りしめ、必死の形相でバックラッシュを直している情けない男を見かけたら、それは私に違いない。どうか、優しく見守ってほしい。
なにしろ私は、このリールの支払いのために、今後数ヶ月にわたって「おやつ抜きの刑」に服することが確定しているのであるから。
この小さなリールは、私に「道具を操る喜び」と「失敗すればすべてを失う恐怖」を同時に突きつけてくる。
この日から私は、この白銀を搭載するロッドが届くのを今か今かと待ち望んでいた。


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